長久手城趾(市指定史跡)
血の池公園西200m(長久手市城屋敷2408)
長久手合戦で徳川方の丹羽氏についた加藤太郎右衛門忠景の居住跡
長久手城は中世末期 加藤太郎右衛門忠景(1543~1584年)の居住跡。長久手合戦時、家康に従った義弟丹羽氏次の留守を預かって岩崎城に入り、その弟、丹羽氏重と共に奮戦したが、池田隊の攻撃に敗れ、城兵230余名もろともに戦死した。
この時長久手城も焼かれ荒れ果てたままになっていたが、文化6年(1809年)忠景の子孫の尾張藩士が当地を訪れ、石碑を立て供養した。
城の遺構は空堀により東西2区画に分かれており、東が本丸で400坪ほどあり、西の二の丸は250坪ほどで、二の丸の南に大手の門があり、入口付近に2mほどの物見の小山があり、頂上には松が一本立っていたとのことであった。
◆文化の碑
建立時期:文化6年(1809)4月
建立者:尾張藩士子孫
建立の経緯:長久手合戦後この城は、荒れ果てたままであったが、忠景の子孫の尾張藩士が、当地を訪れ、当時を偲び石碑を立て供養した。
石碑の刻銘内容
正面刻銘:加藤太郎右衛門忠景宅趾
背面刻銘:
文化6年己巳11月
加藤左一朗景久 ・ 加藤太郎右衛門
景芳 ・加藤太郎右衛門品景
石碑の大きさ:高さ 130cm・太さ 18×15cm角
材質:花崗岩
◆長久手城趾の碑
建立時期:昭和56年(1981)3月
建立者:長久手町教育委員会
建立の経緯:尾張徳川家21代当主で、元徳川美術館長
徳川義宣氏自筆の題字が彫られている。
石碑の刻銘内容
正面刻銘:長久手城趾 徳川義宣(ヨシノブ)
背面刻銘:昭和56年3月 長久手町建立
石碑の大きさ:縦・横 90×120cm・厚さ 14cm
材質:黒御影石製
長久手城は中世末期 加藤太郎右衛門忠景(1543~1584年)の居住跡。長久手合戦時、家康に従った義弟丹羽氏次の留守を預かって岩崎城に入り、その弟、丹羽氏重と共に奮戦したが、池田隊の攻撃に敗れ、城兵230余名もろともに戦死した。
この時長久手城も焼かれ荒れ果てたままになっていたが、文化6年(1809年)忠景の子孫の尾張藩士が当地を訪れ、石碑を立て供養した。
城の遺構は空堀により東西2区画に分かれており、東が本丸で400坪ほどあり、西の二の丸は250坪ほどで、二の丸の南に大手の門があり、入口付近に2mほどの物見の小山があり、頂上には松が一本立っていたとのことであった。
◆文化の碑
建立時期:文化6年(1809)4月
建立者:尾張藩士子孫
建立の経緯:長久手合戦後この城は、荒れ果てたままであったが、忠景の子孫の尾張藩士が、当地を訪れ、当時を偲び石碑を立て供養した。
石碑の刻銘内容
正面刻銘:加藤太郎右衛門忠景宅趾
背面刻銘:
文化6年己巳11月
加藤左一朗景久 ・ 加藤太郎右衛門
景芳 ・加藤太郎右衛門品景
石碑の大きさ:高さ 130cm・太さ 18×15cm角
材質:花崗岩
◆観音堂
建立時期:昭和56年(1981)
建立者:長久手観音奉賛会
長久手観音は加藤太郎右衛門忠景の守り神であった。忠景の出陣で留守を預かっていた一族の奥方たちは、岩崎城落城の報に接し、長久手観音を守り、土塁の地中深く隠して安置し、再興の日を念じたが、観音の行方も不明となった。
江戸時代に入ってから、童が縄で曳いて遊んでいたのを水洗いしたところ、観音像と分かり譲り受けて仏壇に安置した。数年経って夢枕に一刀彫観音像が現れて、旧長久手城趾地内に祭祀をするようお告げがあった。
昭和7年には旧城内に堂を建て祭祀が続けられて来た。 昭和56年(1981)新たに観音堂が完工した。
ながくて観音さまとして信仰を集めている。