長久手市郷土史研究会

長久手市郷土史研究会のホームページです。

長久手市の城 長久手城趾

長久手城趾

【所在地】 長久手市城屋敷

 城屋敏地内の加藤太郎右衛門忠景の居館で、血ノ池(前山池)を東の防禦ラインに見立て、その池水を有事に備えて築かれた平城です。

 『張州府志』に、「在長久手村、加藤太郎右衛門居之、今為民家」と記され、「尾張志」に、「長久手むら東島といふ地にあり、旧墟すべて民居となりて詳にわかりかたし (略)」と記されています。

 築城の時期は永享年間(1429~41)、あるいはもっときかのぼるとも言われ、天正12年(1584)の廃城まで150年から200年間、城として機能した。

 現在、城主ゆかりの観音堂を中心に整備され、文化6年(1809)「加藤太郎右衛門忠景宅趾」の碑のほか、近年製作の記念碑があります。

長久手城の規模

 『尾張徇行記』は、「(略)其跡二反七畝歩アリ」と、『尾張志』は「(略)大概東西廿九間はかり南北廿四間はかりあり」と記し、面積は「徇行記」で2,700㎡、「尾張志」で2,300㎡となります。昭和54年、土地区画整理事業による滅失に先立つ調査で城は中央南北に深さ7m余り、巾3~6m・長さ35mの空堀をはさんで東城と西城の連郭構造を有していた。東西郭とも1,200㎡余の方形で、江戸時代の数値に匹敵し、外周の堀や土塁まで加算すると、6,000㎡余に及ぶものと考えられます。 

城主

・永享年間(1429~41)…左近太郎家忠と左衛門次郎国守
・享禄年間(1528~32)…斉藤平左衛門
・弘治2年(1556)~天正(12年(1584)…加藤太郎右衛門忠景(忠景は小牧長久手の戦いで義弟の丹羽氏重と岩崎城で戦死し、長久手城も焼失した)