長久手市郷土史研究会

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史跡ガイド委員会による「第5回 長久手の地名(山の田・喜婦嶽・東狭間・戸田谷)」勉強会が行われました

第5回学習会は 11月9日(土)午後 12名が参加して、西小校区共生ステーションで開催されました。

 

今月の長久手の地名学習は『長久手古戦場公園』から南西方向に少し離れた4つの場所です。「山の田・喜婦嶽・東狭間・戸田谷」の4ヵ所です。この内の1ヶ所『喜婦嶽』は「長久手合戦(天正12年(1584)4月9日)の最終戦『仏ヶ根の戦い』で森武蔵守長可が、徳川家康の命を狙って陣取った重要拠点」です。

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⑰.山ノ田(やまのた)・・(番号は第1回からの連番です) 

山ノ田(やまのた)

長湫地区で最も東南方に位置する字域で、東側・南側は日進市になります。


長久手市・日進市境は区画整理がされるまでは、海抜100メートルほどの分水嶺が南北に走っていました。現在では市境に跨って(またがって)愛知学院大学の敷地になっており、大学の駐車場やグラウンドが有ります。また、地図右側にある「オヨナガ池」は埋め立てられ、県営住宅が建っています。


更に地図左側にあった長配池も埋め立てられ、南中学校の敷地になっています。字名「山ノ田」の謂れ(いわれ)は、海抜90メートルほどにあった山ノ田池から北西方向に山を切り開いた水田が広がり、文字通り「山ノ田」と名付けられています。今は山ノ田池もなく、この一帯は小高い住宅地になっています。


右上隣の字「山越」から南々西に伸びる点線は、現在の「県道 瀬戸・大府東海線」になっており、またB-A-Cとつながる点線は現在「長久手古戦場通り」と名付けられています。

⑱.喜婦嶽(きぶだけ)

喜婦嶽(きぶだけ)

前述の「⑰山ノ田」の西側上方に位置する字域です。


南北に長い字域で、現在はグリーンロードA―Bが東西に貫いています。南へ行くほど地形が高くなり、南端(Eのあたり)の分水嶺に立つと南東に長配池、南西に杁ヶ池がよく見えたそうです。分水嶺のすぐ北側にある二つのため池Cは『寛文村々覚書』に「きぶらけ池」と記され、江戸時代初めからあったようです。池から北方向へ字の中央を水路が走り「氏神前」にあった池田池Dに注ぎます。この水路のグリーンロードより北側に現在は「せせらぎの道」が作られており、市民の方々が朝夕の散歩道として利用されています。長久手合戦の時、森長可の軍勢がこのあたりに陣取り、北方の徳川軍に向って突進した話は有名です。


 「喜婦嶽」の地名の由来・・・「キブイ」と言う言葉が有りますが、「きびしい」と言う意味で、これは「けわしい」と言う意味にも通じます。即ち「キブタケ」は「傾斜の急な山」のことです。

 

「喜婦嶽」の地下60メートルほどの所に亜炭の鉱脈が通り、池の近くを坑口とする亜炭坑が有りました。昭和7年(1932)5月5日 大量の水が坑内にあふれ、13名の坑夫が坑内に閉じ込められました。必死の救出作業にもかかわらず、坑内の水を排除できず、遺体の収容をあきらめねばならなかったそうです。のちに分水嶺上のE地点に、事故を記念して大きな石地蔵が建てられました。区画整理でこのあたりは20メートルほど削られましたが、地蔵尊は同じ位置に今も祀られています。(E地点は南小学校の一本南側、クルマ往来の激しい道の南沿いに有ります。)

 

⑲.東狭間(ひがしはざま)

東狭間(ひがしはざま)

前述の「⑱喜婦嶽」の西側に位置する字域です。

 

喜婦嶽と同じく、南北に長い字で南高北低です。明治の初め頃、南部は山林と畑でした。字の中央辺り左側に「東狭間の池」があり、池の北方に谷が開けて棚田になっていました。その先は「氏神前」地内で、池田池が有りました。

 

寛文4年(1664)の「田畑寄セ帳」に「東狭間 下田9畝6歩(げでん9せ6ふ)」と記されています。意味としては「東狭間 下等の田んぼ 276坪(9畝×30坪/畝+6歩×1坪/歩) ≒912㎡」ですから、余り収量の良くない、912㎡の水田」と言うことになります。

 

土地区画整理により、A-Bにグリーンロードが開け、字域の真ん中を南北につた抜く道路が出来ました。グリーンロードとの交差点が、現在ではアピタ東南角の「東狭間交差点」になります。平成5年(1993)5月「東狭間の池」の後に、「名都美術館」が開館しました。

字域の中央を南北に通る道路(2001) 正面の建物は名都美術館・奥にアピタが見える

 

⑳.戸田谷(とだがい)

戸田谷(とだがい)

前述の「⑲東狭間」の真西側に位置する字域です。

 

併載の地図は「昭和35年土地法典(注2)を基に書かれたもの」です。中央少し下にグリーンロードが走っており、そのグリーンロードの上の「小リューゴ」右下部分から東狭間にかけて、現在ではアピタの建物が建っています。

 

戸田谷の地形は少し高い位置にあり、東側は「東狭間」の谷、西側は杁ヶ池から北流する水路(現在の図書館通り)に向けて緩やかに傾斜していました。南東方向から北西に通じる3尺幅(1メートル)の道は「長配」方面の炭鉱から亜炭を馬で運ぶのによく利用された道でした。グリーンロードの南側には「大リューゴ」の文字が見えます。「大リューゴ・小リューゴ」と呼ばれる地名が有って、ともに幕末の「村絵図」に載っています。「リューゴ」は「立鼓」または「輪鼓」と書き、鼓(つづみ)の胴のように真ん中がくびれて細くなった形のことです。両側から丘が迫って狭くなったところを道が通っていたので、そう呼ばれたのでしょう。

 

字域の北の方に「仁左衛門旧宅」の文字が見えます。「長久手合戦が終わったあと、林仁左衛門なる人物が戦場後を歩き落ちている多くの刀などの戦闘物を拾い集めたそうです。「百姓仁左衛門、代々古戦場に委しければ訪ふに、先祖仁左衛門戦場にて拾い来たりし品とて取り出して見せぬ」(岩作・長湫・岩崎道中記(注3))。

 

古戦場を訪れた江戸時代の文人墨客は戸田谷にある仁左衛門家に立ち寄って、合戦の遺品を見学するのが常でした。

仁左衛門旧宅跡 戸田外43番地 近年まで子孫の林家が住んでいた 1984

 

(注3):「岩作・長湫・岩崎道中記」について
 尾張藩士(石高は百五十石)であり、且つ俳人でもある「朝岡 宇朝(あさおか うちょう)」が、江戸時代も後半の文政5年(1823)、長久手と日進岩崎を訪れた際の紀行文である。朝岡宇朝は「寛政6年(1794)生れ、天保11年(1840)死去、住まいは片端筋藤塚丁(現名古屋市東区)」。


「名は正章、通称は伝蔵、桃廬と号す。宇朝は其俳号にして、別に露竹斎の号あり。家世々尾張侯に仕へて、禄百五十石を食む。其人と為り沈静にして事に線密なり。儒を飯萬島清忠に学び、篤く朱学を信じ、又小笠原流の礼式に精しく、歌及俳諧を嗜む。交る所点其道に名ある者なり。性遊覧を好み、暇あれば同心の友を携へて、名勝を探り、到る処必筆を援りて之を記す。紀行数十篇あり、又平生見聞する所を筆記(名古屋市史より)」。


 江戸時代には「朝岡宇朝」に限らず、多くの尾張藩士が「神君家康が秀吉に勝利した神聖な場所 長久手」を訪れたようです。名古屋城下の侍たちの居住地(現在の東区)を朝早く出て真っ直ぐ東へ、4時間ほどで色金山の麓、安昌寺に着きます。代々伝わる「長久手合戦」の話しを住職から聞き、色金山の八幡社と床机石を目にして、教圓寺に寄った後、古戦場公園辺りの「敵方池田恒興・紀伊守元助・森

武蔵守長可の戦死地」を目に焼き付け、仁左衛門宅で話を聞き尾張名古屋へ帰ったようです。日帰りでも往復は出来たそうです。


 その証拠が「色金山頂上の 御牀机石(宝永3年1706)福富親成、古戦場公園内の 勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚(明和8年 1771)人見弥右衛門・赤林孫七郎」です。

 

 

(注1):「山の田・喜婦嶽・東狭間の3字域に併載している地図は、何れも『明治9年(1877) 地租改正字限圖』からの抜粋です。

 

(注2):明治以後、租税の対象となる所有地を調査・確定するため、土地台帳や地籍図が公的機関により作成されました。土地台帳とは、その地域の区域名称(町名・大字・小字など)、地番、地積(坪数、面積)、地目(土地の種類:田,畑,山林等)、等級、所有者名といった情報を収録するものであり、地籍図とは一筆ごとの土地の区画形状を測量した土地台帳の附属地図です。土地台帳と地籍図とを合体させるなどして、該当箇所と所有者を確認しやすいように民間で編集して刊行された地図帳を「土地宝典」と呼ばれました。

 

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