2014-01-01から1年間の記事一覧
猪の鼻里謡と馬頭観音(いのはなりようとばとうかんのん) 長久手市役所の東700m(長久手市岩作色金) 安昌寺の門前付近一帯を、元門と呼びます。元門とは出入り口のことで、安昌寺の参道が旧道につながる場所(入り口)であることから、この地名がつき…
長久手市旧大草村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年)・尾張徇行記(1826年)・尾張誌(1843年)、明治以降では尾張国愛知郡熊張村誌(1880年)・大草村誌(戸田鉷四…
城東西国三十三観音霊場順拝と長久手の札所 1 順拝 昔の旅といえば、もっぱら社寺参詣と順拝であった。伊勢神宮、信濃善光寺、高野山、新四国がその代表格であった。「順拝」とは「聖地を順に巡って参拝すること」、四国遍路の納札には「順拝」と印刷されて…
安昌寺の十一面観音菩薩と 岩作八景「安昌寺晩鐘」歌碑と夜泣き石 あんしょうじのじゅういちめんかんのんぼさつとやざこはっけい「あんしょうじばんしょう」くひとよなきいし 長久手市役所の東400m(長久手市岩作色金) 安昌寺は山号は久岳山、曹洞宗寺…
長久手市の神社今昔 旧前熊村 長久手市旧前熊村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃、以下覚書)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年、以下府志)・尾張徇行記(1826年、以下徇行記)・尾張誌(1843年)、明治以…
「長久手合戦と市内各校の校歌」 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが行われ、今年は戦いから430年目の年にあたる。 その最大の激戦となったのが、長久手を主戦場とした4月9日の長久手合戦である。市内各校ではどのように伝えられているか、そ…
百八塚(碑)ひゃくはちづか(ひ) 長久手市役所の北300m {長久手市岩作(宮後)} 昔、岩作の田の中には数多くの塚が散在しており、これを「百八塚」と称していました。 岩作の田の中80余町歩中に多くの草塚が点在し、保存されてきたことは古来より有…
直會神社と岩作八景「直會社夜雨」句碑 なおらいじんじゃとやざこはっけい「なおらいしゃよさめ」くひ 長久手市役所の北西700m (長久手市岩作五反田) 直會とは、お祭りの際に神前の供物を下げて、祭祀の関係者や氏子等が集い、頂くことを言います。「…
長久手市の神社今昔 旧長久手村 長久手市旧長久手村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃、以下覚書)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年、以下府志)・尾張徇行記(1826年、以下徇行記)・尾張誌(1843年)、明…
「長久手合戦と長久手市内各校の校章」 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが行われ、今年は戦いから430年目の年にあたる。その最大の激戦となったのが、長久手を主戦場とした4月9日の長久手合戦である。 市内各校ではどのように伝えられている…
八大龍王の碑と岩作八景「立石池落雁」の歌碑 はちだいりゅうおうのひとやざこはっけい「たていしいけらくがん」のくひ 愛知医科大学南の立石池南堤(長久手市岩作北山) 愛知医科大学の南西に広がる岩作で一番巨大な立石池、この池の南堤中央に二つの石碑は…
長久手市の隠れた史跡をシリーズで紹介する。 上記地図の各項目番号の概要は下表に示しますが、詳細については、各項目の詳細(PDF画面)のアドレスをクリックしてください 1 ≪立石池(岩作で一番巨大な池)の南堤中央にある史跡≫ ・八大龍王の碑 大正2年…
「愛知県唱歌と長久手合戦」 明治時代後期に愛知県唱歌が続けて作曲された。最初に、明治33年11月、愛知県師範学校 安田俊高作曲、三重県師範学校 恒川鐐之助作詞による「地理歴史 愛知縣唱歌」が発表され、続いて、10年後の43年6月、大和田建樹作…
長久手市の神社今昔 旧岩作村 長久手市の旧岩作村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃・以下覚書)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年・以下府志)・尾張徇行記(1826年・以下徇行記)・尾張誌(1843年)、明治…
「大河ドラマ 軍師 官兵衛」の主君の末裔は初代長久手村長 大河ドラマ「軍師 官兵衛」こと黒田官兵衛孝高(よしたか)(1546~1604 年・法号如水))は、播磨・姫路城主で、当初、小寺(こでら)家の家老として、大河ドラマでは片岡鶴太郎演ずる小寺政職(ま…
名古屋城築城と聚福院 地下鉄藤が丘車庫のすぐ東隣、塚田にある曹洞宗聚福院は、名古屋越(清須越)の折り、清須から東寺町に移動した寺院の1つである。 江戸後期の『尾張名所図会』には、尾張の名所の一つとして描かれている。江戸末期の『名古屋城下図』…