長久手市郷土史研究会

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多度社・秋葉社 と 旧前熊村(現長久手市)の神社今昔

長久手市の神社今昔 旧前熊村

    長久手市旧前熊村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃、以下覚書)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年、以下府志)・尾張徇行記(1826年、以下徇行記)・尾張誌(1843年)、明治以降では尾張国愛知郡前熊村誌(1880年)・長久手村誌(浅井菊寿著1934年)・長久手村誌(1967年)があり、それぞれ長久手町史に収録されています。

 それによれば、現存する多度社と秋葉社のほか、過去には八剣社・諏訪明神・山神・天王社がありました。明治9年に作成された『地圖 第弐大區拾参小區尾張国愛知郡前熊村(以下地圖愛知郡前熊村)』から、すべての場所が特定できます。

 

1 現存する神社

① 多度社

鎮座地:長久手市前熊志水108-1

祭神:天津彦根命(あまつひこねのみこと)
     武御名方命(たけみなかたのみこと)
     日本武尊(やまとたけるのみこと)
     須佐之男命(すさのおのみこと)

由 緒:多度社は香流川と神明川の合流する場所にあります。鎮座の年代は不詳ですが、両川の合流地点はよく決壊したので、伊勢の多度神社から分霊を勧請して祀ったものといわれています。
 神社名は、覚書(1670頃)と寺社誌(江戸前期)では「権現」とされていますが、府志 (1752)には「権現祠」と記載され、徇行記(1820頃)に「多度権現祠」と尾張誌(1843)に「多度ノ社」・「氏神ナリ」と記載されています。一方、棟札では天和元年(1681)の「奉建立伊勢神明天照皇大神宮」から大正11年の「奉屋根葺替神明社」まで多度社や権現の名は使用せず、「神明社」や「天照皇大神宮」と呼称していました。
 明治5年に村社となりました。明治政府の合祀奨励策で、明治初年に諏訪社・山神を合祀し、さらに明治43年(1910)に八剣社・大正2年(1913)に天王社が合祀されました。
 末社は、徇行記(1820頃)と尾張誌(1843)では神明社と山神社の2社でしたが、文政10年(1872)の棟札に
鍬社建立と、文久4年(1864)の棟札に池鯉鮒社勧請の記述があり、長久手村誌(昭和9年)には知立社・鍬社・稲荷社が末社として追加され5社と記載されています。現在は、神明社・山神社・知立社・鍬社・諏訪社の5末社が玉垣の中、本殿右にある2つの祠に祀られております。

例祭日:10月10日に前後の日曜日
特殊神事 おまんと(警固祭)…豊年の年に行われる
天王まつり 毎年7月16日に近い日曜日に永禄5年(1562)ごろから続く天王祭りが行われています。まつりでは、長久手市唯一の山車(1台)が曳き回されます。

◆長久手市指定文化財

1) 山 車:天王まつりで曳き回される山車です。来歴を明示する古文書類は残っていませんが、名古屋の古出来町で使われていたものを文化年間(1805年頃)に譲り受けたとする説が有力です。中古となれば、製作年代は遡り、名古屋山車の古い形式を知る上でも貴重な文化財です。

2)鳥 居:寛文元年(1661)に建立されたと刻まれています。江戸時代初期の石造鳥居は、隣村の旧北熊村の鳥居(寛文2年…1662建立)と共に、県下でも古い部類に入ります。

 

② 秋葉社

鎮座地:長久手市前熊根ノ上8番地

由 緒:秋葉社の創立は不詳ですが、灯籠の建立は文化4年(1807)と刻まれており、徇行記(1820年頃)に「秋葉祠 前熊寺掌レリ」と記載されています。また、地圖愛知郡前熊村(明治9年)では字根ノ上8番地が「秋葉山境内」と表記されています。現在、敷地内には石祠と秋葉山常夜灯があります。

 秋葉社は火伏せの神であり、燃えにくい石祠を祀る例が多くあり、この石祠も秋葉祠と考えられますが、山神祠という説もあります。
この敷地には大峰山行者堂もあります。弘化4年(1847)の村絵図で昌隆寺の東横に行者堂が描かれていますが移設されたと思われます。

大峰山行者堂

 

2 過去に存在した神社

① 八剱社
 八剣社は、鎮座年は不詳ですが、多度社同様に古い神社でした。神社名は覚書(1670頃)と寺社誌(江戸前期)では「明神」とされていますが、府志 (1752)には「明神祠」と記載され、徇行記(1820頃)には「八剣大明神祠」と尾張誌(1843)に「八剣の神」と呼称されています。

 尾張国愛知郡前熊村誌(1880年)に、敷地面積が1394坪と多度社の1562坪と互角の敷地が記載され、氏子もいる神社でしたが、尾張誌(1843)には「氏神ノ東南ノ方ニアリ」と記載されており、村の氏神は多度社だったことが判ります。明治43年に多度社に合祀されました。祭神の日本武命は多度社で祀られています。跡地はサンコー鞄の敷地内にあり、「八剣神社跡」碑が県道215号田籾名古屋線に接した林の中にあります。
跡地:長久手市前熊寺田19番地

「八剣神社跡」碑

② 諏訪社
 覚書(1670年頃)と寺社誌(江戸初期)に「諏訪明神」記載され、徇行記(1820頃)に「諏訪明神祠」、尾張誌(1843)では「諏訪ノ社」と記載されています。また、地圖愛知郡前熊村(明治9年)には字前山12番地が「諏訪神社境内」と表記されており、前熊農産物集出荷場脇の墓地の北西に隣接していました。
「諏訪社」は明治初年に、多度社に合祀されました。祭神武御名方命(たけみなかたのみこと)は多度社で祀られています。

跡地:長久手市前熊前山12番地

③ 山神
 覚書(1670年頃)に「山神」、寺社誌(江戸初期)に「山ノ神」と記され、徇行記(1820頃)では「山神祠」と呼ばれ、尾張誌(1843)には「山ノ神ノ社」と記載されています。地圖愛知郡前熊村(明治9年)では字原
山62番地が「山神境内」と表記されており、前熊東交差点の北西約400mの森の中にありました。「山神」は明治初年に、多度社に合祀されました。

跡地:長久手市前熊前山12番地

④ 天王社
 府志(1752年)に「天王祠」と呼称し、徇行記(1820頃)では「天王祠」・「前熊寺掌レリ」と記され、尾張誌(1843)には「天王ノ社」「前熊寺社の事を掌る」と記載されています。地圖愛知郡前熊村(明治9年)では字橋ノ本14番地が「津島社境内」と表記されており、前熊寺境内の西の一角にありました。

 「天王社」は大正2年(1918)に、多度社に合祀されました。祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)は多度社で祀られ、天王まつりは山車と共に多度社に移され、現在も毎年7月16日に近い日曜日に行われています。また、天王社の旧社殿は前熊の郷蔵として元の位置に残っています。

跡地:長久手市前熊橋ノ本14番地

天王社の旧社殿

 

【参考資料】

寛文村々覚書、寺社誌、張州府志、尾張徇行記、尾張誌、長久手村誌、尾張国愛知郡前熊村誌
地圖第弐大區拾参小區尾張国愛知郡前熊村、長久手の地名(小林 元著)