直會神社と岩作八景「直會社夜雨」句碑
なおらいじんじゃとやざこはっけい「なおらいしゃよさめ」くひ
長久手市役所の北西700m (長久手市岩作五反田)
直會とは、お祭りの際に神前の供物を下げて、祭祀の関係者や氏子等が集い、頂くことを言います。「ナオライ」の言葉は、神様と人々が一緒に味合う意味の「ナムリアイ」に由来しており、これを「直會の儀式」といいます。神と人々の交換の場として、かっては祭の中心に位置づけられていたが、現在はお祭りの後の酒宴をさします。
岩作の直會神社は石作神社(岩作式内)の摂社いわゆる石作神社の小社としての神社で岩作字久手田32番地(現五反田9番地)に祭祀しております。
神社の創建は詳しくは判りませんが、古文書によれば、石造神社の直會の神として、岩作区所有地の古墳上の塚地に祭祀したものと言います。
大正の初めの頃は、直會神社の境内は今よりも狭く現在の広さの半分程で、塚の上には2,3本の杉の木立があり、その杉の木の根元付近に四方75cmほどのご神殿が祭祀してあり、他には何も無く、田んぼの中の小祠社でありました。
その後大正15年8月に神社が再建されたおり、248㎡(75.1坪)に増反され、現在の広さになったのです。
直會神社の祭神は五穀豊穣の神であります。
祭神 神道 昆命
祭神 大道 昆命
大祭日 毎年3月、12月(第一日曜日)
お祭りの時には、弓道大会も挙行され、お酒、甘酒等の接待もあり又露天商5~6店は出ておりました。昭和20年頃までは、戦勝祈願の人もあって多くの人の参詣で盛大でありました。その後、終戦と共に次第に衰退してしまい今日に至っております。
現在の神社は平成11年5月ご神殿、灯篭、鳥居等が再建されております。当時の氏子、総代表、区長などが再建に尽力され多くの方の寄付によって再建されました。
直會神社の境内には下記の記念碑が建立されております。
鳥居
社殿
1.岩作八景
「直會社夜雨」の句碑 平成11年5月建立
「枝かはつ なき暮らしつつ みやしろの 木々さわがせて 夜雨ふりきぬ」
浅井菊寿詠 浅井千鶴子書
この詩歌は岩作八景のうちの「直會社夜雨」と題した3首の中の1首であります。浅井菊寿著「長久手村誌」(昭和9年版)によると、岩作八景は天保年代に描かれた孤松斎樵玉の画帳に描かれた風景を元に大正10年の頃に岩作の文人達が開かれた詩歌の会でこの岩作八景のそれぞれの情景について詩歌を詠んだと記されています(1景を3人ずつで詠んでいます。詩歌2句、漢詩1句)。
ちなみに、岩作八景とは、「直會社夜雨」、「色金山秋月」、「安昌寺晩鐘」、「石作社晴嵐」、「立石池落雁」、「下田流蛍」、「平子橋夕照」、「高根山暮雪」であります。
「直會社夜雨」の他2句は次の通りです。
和歌 浅井新雄詠
「おともなく 降る小山田の よるの雨 おもひやるには 淋しかりけり」
漢詩 大鹿翠峰詠
数株老樹聳田間
下有小祠屏半開
誰識雨風沈寂夜
行人過此涙潜々
訓 数株の老樹田間に聳ゆ (すうしゅのろうじゅ たかんにそびゆ)
下小祠有り屏半開す (したしょうしあり かさはんびらきす)
誰か識る雨風の寂夜に沈むを(だれかしる うふうのじゃくやにしずむを)
行人此こを過ぎれば涙潜々 (こうじんここを すぎればなみだせんせん)
「直會社夜雨」句碑
2.浅井菊寿翁碑 昭和4年9月建立
浅井氏は長久手村岩作の人で安政6年(1859)に生まれ昭和13年(1938)に79歳で没している。菊寿氏の先祖は、代々惣助を名乗り、岩作村の庄屋を務めてきたという。祖父の惣助は文才に優れ、庄屋としての長年の功績により、文政年間(1818~30)に藩主より 名字を名乗ることを許されたという。
又、氏の伯父の松原為蔵も孤松斎樵玉と称して絵の道に修行をした。このように恵まれた家系に育った菊寿氏は若い頃には国学や和歌をよく学んだといわれる。明治20年代には、岩作村の収入役などを勤め、郷里の発展に尽力している。
又、菊寿氏は、郷土の歴史についての「岩作里誌」(大正13年)と「長久手村誌」(昭和9年)を自費出版した郷土の先人です。
その他の碑
3.弓道師範碑 牧仙太郎他4名 刻字不明
4.社殿再建改修碑 大正15年8月建立
「浅井菊寿翁」碑と「社殿再建改修」碑
参考文献
▽長久手市郷土史研究会会報「胡牀石」 ▽直會神社御縁起由来記(福岡鍄三)
▽岩作八景歌碑建立直會社夜雨(石崎義雄)▽香流川物語(小林元)