長久手市郷土史研究会

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景行天皇社・富士社 と 旧長久手村(現長久手市)の神社今昔

長久手市の神社今昔  旧長久手村

 

  長久手市旧長久手村の神社に関する文献は、江戸時代では寛文村々覚書(1670年頃、以下覚書)・寺社誌(江戸初期)・張州府志(1752年、以下府志)・尾張徇行記(1826年、以下徇行記)・尾張誌(1843年)、明治以降では尾張国愛知郡誌長久手村(1880年)・長久手村誌(浅井菊寿著1934年)・長久手村誌(1967年)があり、それぞれ長久手町史に収録されています。それによれば、現存する景行天皇・富士社のほか、過去に熊野社・氏神・金神・山神(4か所)がありました。

 

1 現存する神社
① 景行天皇社

鎮座地:長久手市西浦401番地
祭神:大帯日子於斯呂和気命 (おおたらしひこおしろわけのみこと・景行天皇)由 緒 書紀による第12代・景行天皇を祀り、承和4年(837)に創建されました。

 同年の棟札が残っており、平安時代の「延喜式神名帳」に記載の山田郡の「和尓良神社(かにらじんじゃ又はわにらじんじゃ)」であるといわれています。

 天保3年(1832)に景行天皇社の神主が出した書状に「鎮座の旧地ハ・・(中略)・・字神井堀南麓ノ字和尓原ナリ」とあり、その地は現在の蟹原(地名)と思われます。

 一方、尾張誌(1835)には「往古は根神といふ地にあり」と記されており、創建から時を経て、蟹原の高根に建てられた社を「根神」と呼ぶようになったと思われます。

 現在も、根の神と蟹原は長久手市内の地名で、隣接しています。その後、「コウロギと呼地に遷し奉り」と尾張誌に記載されています。江戸時代に丸根の南端(古戦場駅の北東)に山ノ神があって、地元の人に「コロゲ」とよばれていた地域があります。「コウロギ」は「清ら木」のことで、神木を意味します。その地が遷座地と比定されています。左に神明社・右に白山社を配し、三社相殿の宮となっていました。

 さらに、慶長9年(1604)に現在地に遷座しました。この間、尾張徇行記(1820年頃)には「重修ノ年暦ハ永享9年(1437)藤原左近太郎家忠・左衛門次郎国守・沙弥善洞・左衛門太郎国包、享禄3年(1530)沙門慶祝・斎藤平左衛門尉・同民部丞・牧弥九郎、弘治2(1557)斎藤源五郎、慶長9年(1604)加藤太郎右衛門漸々ニ重修ストナリ」と記載されています。

 同社は寛文村々覚書(1670頃)に「明神」と呼称されているが、寺社誌(江戸前期)では同名で神明と白山が摂社となり、尾張徇行記には明神祠の呼称と「是神名式ニ所謂山田郡和爾良神社歟」が記載され、式内社の1つと推定されています。

 明治5年に村社となりました。明治政府の合祀奨励策で、明治5年(1872)以前に熊野社・金社・山ノ神を合祀しました。これにより、摂社は江戸期には神明社と白山社の2社でしたが、長久手村誌(昭和9年)には金比羅社・金神社・熊野社・津島社・山神社が末社として追加記載されております。現在、摂社としては、本殿の東側に左より白山社・津島社・神明社の3 社が並び建ち、本殿前の南西に山ノ神の石祠2 社があります。
 平成9年(1997)に本殿と社務所が新築造営され、旧拝殿は神楽殿として移築改修されました。

白山社・津島社・神明社の3 社

山ノ神の石祠2 社


秋季例大祭:10月の第2日曜日
特殊神事:警固祭(おまんと)・・・2年毎に奉納(平成26年は実施する)

 

◆長久手市指定文化財
① 棟 札 37枚 承和4年(837)の棟札が最古で摂社の神明社と白山社の棟札も含んでいる

② 陶製御深井釉狛犬 (とうせいおふけゆうこまいぬ) 2対4躯 刻銘等から宝暦年(1751~64)より前の狛犬の様式を伝承する貴重な資料で、昔長湫の若衆が氏神様に奉納したものといわれる。

 

その他の文化財
・家康奉納木太刀 4振 徳川家康が戦勝を祈願し、叶えられたので、戦後まもなく1振を奉納、後に3振を奉納し、開運の感謝をしたといわれる。

陶製御深井釉狛犬                家康奉納木太刀 4振

(長久手町史資料編3「文化財」写真より)

② 冨士社

鎮座地:長久手市冨士浦602番地

御旗山:(長久手合戦史跡、国指定文化財 昭和14年9月7日指定) または冨士が根とも呼ばれています。
 天正12年(1584)4月9日の長久手合戦の折、家康は自軍の先遣隊が桧ケ根で堀隊に敗れ敗走してくるのを見て、兵の一部をこの山に向かわせ、金扇の馬印を立
てて喚声をあげさせ、堀隊を威嚇しました堀秀政は山頂の馬印を見て、家康本隊が迫っていることに驚いて、兵をまとめて退却してゆきました。この馬印(御旗)を立てた
故事にちなんで、御旗山と呼ばれています。山頂に碑が建っています。

祭神:木花開耶姫命

由緒:駿州冨士浅間社先達重太夫が元和3年(1617)6月に創建しました。神主は累代青山重太夫が明治37年まで務め、先達の地名は現在も残っています。社名は覚書(1670年頃)と寺社誌(江戸初期)に「浅間」・府志(1752)と徇行記(1820頃)に「冨士祠」・尾張誌(1843)には「冨士社」と記されています。また府志に「富士祠 在=長久手村-有=祠九区-今僅存=一区-」と、昔は村の島々に冨士祠があったことが記されています。
 明治5年に村社となりました。長久手市の旧5村では旧長湫村以外は、氏神1社でしたが、長湫村だけは、冨士社(先達島)と景行天皇社(その他の島)の2社がありました。警固祭りで2社をまわるのが大変ということになり、昭和30年ごろ、景行天皇社の氏子1本にまとまりました。
 昭和45年社殿の大改修をしたが、昭和60年に焼失、平成3年長久手区のと崇拝者の支援により再建、面目を一新しました。地域の守護神として特に幼児の虫封じに御神威があるとされている。

例祭:10月15日

 

2 過去に存在した神社

① 熊野社
 社名は覚書(1670年頃)と寺社誌(江戸初期)に「権現」・徇行記(1820頃)に「熊野祠」・尾張誌(1843)には「熊野社」と呼ばれています。また尾張誌に「もと大久手といふ處の社池の辺にありしを永禄9年(1566)9月今の處に遷す」と記されています。また寛政年(1790頃)と嘉永2年(1849)の村絵図には常照寺の南西に接して描かれています。
「熊野社」は明治5年までに、景行天皇社に合祀されました。

跡地:長久手市久保山(はなみずき駅近辺)

② 氏神 と 金神

 「氏神」は覚書(1670年頃)と寺社誌(江戸初期)に記載され、並列に記載される景行天皇社(当時「明神」と称呼)とは別の神社で特定の一族の守護神と考えられます。「氏神」はそれ以降は記載されなくなりましたが、徇行記(1820頃)に「金神祠」、尾張誌(1843)で「金ノ社」が新たに記載されています。また寛政年(1790頃)の村絵図には「荒神森」・嘉永2年(1849)の村絵図には「金神森」が画かれており、「金神」「金ノ社」「荒神」は同一で字氏神前11番地(旧地番)の森にあったと考えられます。同地は庄屋林仁左衛門家に隣接しており、さらに同家の墓地も隣接していることより、林家の守護神であり、「氏神」は「金神」の前名だったとも考えられる。「金神」は明治5年までに、景行天皇社に合祀されました。
跡地:長久手市氏神前

③山神
覚書(1670年頃)に「山神」・寺社誌(江戸初期)に「山ノ神」と呼ばれ、2か所あったと記載され、徇行記(1820頃)では「山神祠」と呼ばれ、前の2か所のほか常照寺と豊善院内にも記載され、4か所あります。
一方、尾張誌(1843)には「山ノ神」3所と記されています。また寛政年(1790頃)と嘉永2年(1849)の村絵図には2か所画かれています。明治9年(1876)の長湫村「地租改正字限図(あざかぎりず)」に照合すると、跡地を確定できます。
「山神」は明治5年までに、景行天皇社に合祀されました。
跡地:長久手市桜作(常照寺境内)
   長久手市打越(豊善院境内)
   長久手市久保山(長久手西小学校の東北隣接地)
   長久手市丸根(リニモ古戦場駅東北)

【参考資料】
寛文村々覚書、寺社誌、張州府志、尾張徇行記、尾張誌、長久手村誌、長湫記附録、長湫村地租改正字限図、長久手の地名(小林 元著)