長久手市郷土史研究会

長久手市郷土史研究会のホームページです。

≪隠れた史跡3≫百八塚(碑)

百八塚(碑)ひゃくはちづか(ひ)

長久手市役所の北300m {長久手市岩作(宮後)}

昔、岩作の田の中には数多くの塚が散在しており、これを「百八塚」と称していました。

 岩作の田の中80余町歩中に多くの草塚が点在し、保存されてきたことは古来より有名でありましたが、その古墳の存立も由来も語ることなくして、昭和48年(1973)の岩作土地整備事業により、直會社古墳一基だけを残して全部消滅してしまいました。

 古墳草塚の造立は、古代石作連が旧山田郡の諸地域を平定し支配するにあたり、その一族や氏族を葬った個所とも言われますが、岩作発祥(*)の歴史を語る原点であります。また、岩作開拓の時代に土中から出た岩石などを積んだものともされます。

 またまた、天正12年(1584)4月9日長久手合戦に際し多くの戦死者を出しましたが、その墳墓の個所が草塚となり、後年まで存在してきたとも言われています。

 百八塚古墳が多く存在した小字は、塚本・久手田・宮前・城の内等々で、中島・中脇等の草塚は長久手小学校埋立用土として採土して古墳草塚は多く消滅しました。

 古墳の面積は、大で60坪(約200㎡)、小は5~6坪(16~20㎡)程度で、塚上には松・桧・桜等他雑木、雑草が多く繁っていました。

 この地域の守り神である石作神社(長久手市岩作宮後)には、これらの塚を記念する碑(石)があります。

(*)岩作発祥・・・「岩作発祥と百八塚について(長久手市郷土史研究会 福岡鍄三)」より
 長久手町旧岩作村が明治39年(1907)5月に、旧長湫、旧上郷村の三ヶ村が合併して長久手村とな
り、現在の長久手町となってきた。
 上古の時代に岩作に人が居住し集落が出来て稲作田地を字宮前・南島の地から開拓したが、人の増加
と共に字中島・城ノ内地域へと順次開拓した。

 当時の稲作用水は自然の湧水と天水であり、水のある処に開田したもので、自然の地勢地形のままで開田開拓したと言う。岩作には古代石作氏族の直系浅井氏、及び加藤氏、林氏、福岡氏、日比野氏・倉地氏等々9姓の人が岩作発祥の祖人で、古代より江戸時代の元禄年間頃までに50余町歩の田地を開拓して農耕していたと言う。

 稲作用水は古代は香流川の流水を、今日の御嶽山橋の上流7、80m位の地点から自然流水で取水用水していたが、幕末から明治の初年にかけて、現在の猪ノ鼻の地点から上水して取水するように度々の改修により現在の施設に改築されたものである。

 岩作猪ノ鼻は、色金山・御嶽山相共に接した狭間で香流川の流水が三段に落水した、と言う古来より人上古神代の時代には、猪ノ鼻古沼の地に大蛇が棲息したと言う。

 古歌に 「ここは岩作か  安昌寺よこか  昔し  じゃのでた  猪ノ鼻か」とある。

本殿

鳥居と参道

「百八塚」碑{鳥居の左側にあります}