長久手市郷土史研究会

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史跡ガイド委員会で「長久手の地名」勉強会が始まりました

史跡ガイド委員会は毎月1回勉強会を行っています

明治維新直後(1873)、地租改正が行われ、徴税のための土地台帳を作る目的で、それまでその地域(小字)で伝承されてきた地名をもとにした名前(字名)を付けた字域決定の作業が行われた。明治8年(1875)頃には、長湫90・岩作67・前熊14・大草13・北熊27、計211の字域が決められた。


そして、その地名(小字名)は大字名と合わせて「長久手市になる(2012年1月)」まで活きていた。即ち、「愛知県愛知郡長久手町大字長湫字仏ヶ根○○番地」などと使われてきた。


 「‘長湫’とは何? 古戦場公園辺りを’仏ヶ根‘と言うのは何故?」など、疑問は出てこないですか?
⇒「ひょっとしたら、長久手合戦で沢山の戦死者が転がっていたから」⇒「そうでは無い」ようです!

 

 このような地名を知るには、もってこいの教材が有ります。
「長久手の地名(小林元著2002発行)」です。小林元さん(元 長久手市郷土史研究会会員)は、昭和58年(1983)4月から平成13年(2001)4月まで『広報長久手』誌上で「長久手の地名」として、211の地名解説をされました。その集大成が「長久手の地名(小林元著2002発行)」です。


 長久手市郷土史研究会の史跡ガイド員は、全国から来られるゲストに「小牧・長久手の戦い」に関する史跡ガイドを行っています。昨年度は、古戦場公園資料室で開催された長久手市主催特別展「徳川四天王」のゲストを含め、897名の方たちに史跡ガイドを行いました。


そのため、10数名の史跡ガイド委員会メンバーが、毎月1回集まって勉強会を行っています。

 

7月13日(土)には「仏ヶ根、武蔵塚、城屋敷」を学びました

7月13日(土)の学習会では、大字長湫地域内で長久手合戦に関係する「仏ヶ根、武蔵塚、城屋敷」の学習です。上の写真は、冊子「長久手の地名」、 下の地図は「長湫の地名(明治8年 1875)」です。

冊子「長久手の地名」

冊子「長久手の地名」

「長湫の地名(明治8年 1875)」

「長湫の地名(明治8年 1875)」

 

①.仏ヶ根(ほとけがね)

仏ヶ根

仏ヶ根

リニモテラス横を南北に通る県道瀬戸大府東海線の西側に位置し、「長久手古戦場公園」が大部分を占める長久手合戦決戦の地です。池田恒興(勝入)の塚が有り、南端には息子元助討死の場所に庄九郎塚が有ります。

「仏ヶ根」の地名は『寛文村々覚書(寛文年間の1670年頃、尾張徳川藩が作成した尾張8郡1,022村の村勢一覧)』にも載っていて、江戸時代初期からあったことが知られるが、合戦当時(天正12年-1584)にあったかどうかは分からない。

江戸時代初期の「仏ヶ根」には多数の戦死者の塚が有ったとのことで、それが地名の起源になったのかも知れない。しかし、「ホトケ」 は「ハタケ」が転化したかもとも言われ、山林が切り開かれて耕地化された丘陵「ハタケガネ」が「ホトケガネ」になったとの説もあるとのことです。

 

②.武蔵塚(むさしづか)

武蔵塚

武蔵塚

古戦場西通り沿いには「森武蔵守長可が家康本陣を目指し突撃した時、敵陣からの弾丸に当り馬上からもんどり落ちた場所=武蔵塚」がある。

戦い当時、100mほど北側には仏ヶ根池(現まちづくりセンター)があり、南側喜婦嶽は海抜90m程の高地だったとの説明有り。

字域の東端(古戦場公園の交差点あたり)には、「二本松台石 昭和22年12月10日倒之 周囲1丈5尺」の石碑が残されている。

 

③.城屋敷(しろやしき)

城屋敷

城屋敷

景行天皇社の南東方の地域です。江戸時代の長湫の9つの島(集落)の1つで、「東島」とも呼ばれていた。北東端の広い山林は「御馬立場(おうまたてば)」が有り、徳川家康が合戦を指揮した丘である。

直ぐ西側には、前山池=血の池があり、その南西に伸びる丘陵地が、字名の由来となった長久手城の址である。「古城跡 先年加藤太郎右衛門城之由 今は百姓屋敷ニ成ル」と『寛文村々覚書』にある。長久手城址には「加藤太郎右衛門忠景宅址」と彫られた文化6年(1809)の石柱が立っている。

 

これからも、継続的に学習内容を記事として掲載します。
ご期待ください!


長久手市や近郊にお住まいの皆様へ

この記事を読んで長久手の地名に興味を持たれたら、長久手市郷土史研究会までご連絡ください。一緒に地元の歴史を勉強をしましょう!
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長久手市郷土史研究会の皆様へ

次回の史跡ガイド委員会は「2024年8月10日 13時30分~長久手西小校区共生ステーション」で開催の予定です。

ご来場を、心からお待ち申しております。