長久手市郷土史研究会

長久手市郷土史研究会のホームページです。

史跡ガイド委員会で「第2回 長久手の地名(鴉ヶ廻間・東浦・香桶・先達)」勉強会が行われました

第2回学習会は「鴉ヶ廻間・東浦・香桶・先達」

第1回の記事


④.鴉ヶ廻間(からすがはざま)・・(番号は第1回からの連番です) 

鴉ヶ廻間

鴉ヶ廻間

「井伊直政(いい なおまさ)ハ、鉄砲頭(てっぽうがしら)ヲ真先(まっさき)ニ立テ、冨士ヶ根(ふじがね)ヨリ香桶川(こうおけがわ)ヘ押出シ(おしだし)、川堤ニ鉄砲ヲ張出シ(はりだし)、鴉廻間ニ備エシ池田カ先手(さきて)ト鉄砲ヲ合セ打合(うちあい)ケレドモ・・・」
(『長湫軍記』より)

 

天正の昔(1584年)、羽柴方の池田隊と徳川軍が激戦を繰り拡げた場所です。色金山中腹に墓碑がある「徳川方武将唯一の戦死者と言われる伴若狭守盛兼(ばん わかさのかみ もりかね)」が討死した場所です。また、徳川家康の本陣地がこの場所の中央西寄り(地図のC)にあり、「鎧掛け(よろいがけ)の松(地図のD)や血の池(前山池)も有ります。


「戦いのあと、無数の戦死者が放ったらかしになっており、沢山のカラスが集まり遺体を突っついていたから、鴉ヶ廻間と呼ばれた」との、地名の謂れ(いわれ)があります。


日本では古来から「遺体の埋葬など戦場の後処理は、勝利者が敵・味方の区別なく行う」との不文律の仕来り(しきたり)があったが、長久手合戦で勝利した徳川家康は「羽柴秀吉が犬山楽田(がくでん)からすぐにでも出陣してくる」と考え、首実検も早々に済ませ守山小幡城(おばたじょう)へ引揚げてしまった史実と辻褄が合います。


また、岩作地域では「安昌寺の住職 雲山和尚(うんざん おしょう)が戦いが終わった後、近在の住民の協力を得て遺体の集め埋葬し、塚を築いて手厚く供養した」。これが国指定史跡である「首塚(くびづか)(長久手市岩作元門41)」ですが、同じ理由(遺体が放ったらかしになっていた)からです。

この字域は、先月学習した「仏ヶ根(ほとけがね)と城屋敷(しろやしき)」の北隣の場所に位置します。「長久手市まちづくりセンター」周辺の地域です。現在では「グリーンロードの砂子(すなご)交差点から北へ、消防庁舎前に至る広い道路=古戦場通り(こせんじょうどおり)」がこの字域の中央を南北に真っ直ぐ貫いています(地図のAからBです)。


 ⑤.東浦(ひがしうら)

東浦

東浦

景行天皇社(けいこう てんのうしゃ)から北東方へ県道(地図のBからA)が有り、「富士社(御旗山)(ふじしゃ(みはたやま))」の東側一帯が東浦です。東方の「鴉ヶ廻間」との境には(区画整理前まで)前山(まえやま)と呼ばれる丘陵があり、長久手合戦のとき徳川方の本陣が設けられたといわれています。

                                                                                                 
徳川家康はこの場所から、東・南に布陣する羽柴軍の池田恒興(勝入)(いけだ つねおき(しょうにゅう))・池田元助(庄九郎)(いけだ もとすけ(しょうくろう))・池田照政(いけだ てるまさ)・森長可(もり ながよし)らを相手に戦闘を繰り拡げました。

 

この字域の南西端には水田(地図のC)があり、長久手城の北側を守る堀の役目も果たしていた場所です。また、近くには観音堂(かんのうどう)も有りました。


 ⑥.香桶(こうおけ)

香桶

香桶

長久手小学校の西側の道を南へ、香流川を渡ってさらに150mほど進むと小さな橋を渡ります。この橋の下を流れる小さな川が香桶川で、香流川の支流です。この字域の中央西寄りには古戦場通りが南北に走り、香桶の交差点が有ります。


区画整理前までは、山林が主の場所で多少の畑が香桶川沿いにありました。明治15年(1882)の「字名調」には「コウオケ」と記され、幕末の「村絵図」には「カウケ川」、西隣の「冨士浦(ふじうら)」北部にある水田を「コウゲ田」と記されています。


近在の古老は「コーゲ」と発音しており、「香桶」は「コーゲ」の当て字でないかと言われています。「コーゲ」と称する地名は日本各地に沢山あり、民俗学者の柳田國男によれば、「コーゲ」とは「やや高燥(こうそう)な傾斜地」のことで、水の便が悪く耕地に適さないため、採草地として半ば放置されていた場所のことだそうです。


 ⑦.先達(せんだつ)

先達

先達

字域の「北側は香流川、東側は岩作(やざこ)の平子(ひらこ)、南側は香桶川、西側は県道」に囲まれた場所です。


「先達」とは「修験者(しゅげんしゃ)が峰入り(みねいり)する時の案内者」のことです。


『寛文村々覚書(かんぶん むらむら おぼえがき 寛文年間の1670年頃、尾張徳川藩が作成した尾張8郡1,022村の村勢一覧)』に「浅間(せんげん)ハ当村(とうむら)祢宜(ねぎ)十太夫(じゅうだゆう)持分」と書かれていて、御旗山(みはたやま)頂上にある冨士浅間社(ふじせんげんしゃ)は、元和3年(1617)に青山重太夫(じゅうだゆう) という先達が創建したものです。重太夫は富士の山開きには是非とも必要な人物であったそうです。また、重太夫の古い暮石は、今も安昌寺の墓地にあるそうです。「重太夫の子孫の多くの人々が、この地域に住んでいた」ことが、字名になったようです。

 

 

今回の4つの字域地図は何れも『地租改正字限圖(ちそかいせい あざきりず 明治9年 1877)』が出典元です。

 

『地租改正字限圖』とは、別名「字図(あざず)」若しくは「字絵図(あざえず)」、「分間図(ぶんけんず)」、「改租図(かいそず)」、「公図(こうず)」とも呼ばれていて、地租改正条例(明治6年)の施行に伴い、明治9年から明治14年頃にかけて、大字又は字を単位に作成されている。

 

長久手市や近郊にお住まいの皆様へ

この記事を読んで長久手の地名に興味を持たれたら、長久手市郷土史研究会までご連絡ください。一緒に地元の歴史を勉強をしましょう!
お問い合わせはこちらから。