2024年6月18日色金山歴史公園頂上の床机石の前で、中日ホームニュースからの取材を受けた。「長久手郷土史研究会ホームページのリニューアル」に関しての取材である。
写真バックに大きな石が2つ並んでいます。向かって左側の低い方の石が、徳川家康が腰をかけたと言われる‘床机石(しょうぎいし)です。
中央に建っている1mほどの石柱前面には「御床机石(おん しょうぎいし)」、裏面には「徳風靡草 至極転星(とくふうえんそう しきょくてんせい)」と漢詩が刻まれています。「家康の人徳の及ぶさまは草も伏し拝む。最高位として、星となる」との意です。
この石柱は、長久手合戦(天正12年4月9日1584)の112年後、即ち宝永3年(1706)に尾張藩士 福富親成が「神君家康 戦勝の地」を訪れた際に建立したものです。
「小牧・長久手の戦い」の最大激戦であった『長久手合戦』で勝利を得た徳川家康、これから19年後の慶長8年(1603)征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。言い換えれば、「羽柴秀吉との生涯唯一の直接対決『長久手合戦』こそが、天下分け目の戦い」であった。
何故「徳川家康は『長久手合戦』で勝つ」ことが出来たのか?我々長久手市郷土史研究会は、歴史本『長久手合戦 完』を教材にして学習、長久手への来訪者に史跡の説明を行っている。
『長久手合戦』は天正12年3月中頃から「約10万の羽柴軍が陣取る犬山楽田城」と「片や3万8千の織田・徳川連合軍が陣取る小牧山城」との間でにらみ合いが続く中、しびれを切らした羽柴軍・池田恒興の「家康の本拠地三河岡崎城を攻めれば、家康は小牧山城から出てくる」との算段で始まった。
4月6日深夜「三好秀次を総大将とする羽柴軍の岡崎中入り隊2万が楽田城を出発、春日井 上条砦に7日午前着陣、8日深夜4隊に分かれ(池田隊6千・森隊3千・堀隊3千・三好隊8千)岡崎に向け再出陣する。
楽田城を見張る家康が放った偵察は、織田が領地である尾張の住民からの情報をも収集し作戦会議を済ませ、小牧山城を8日深夜に出陣、一旦守山小幡城に入る。小幡城城主本多広孝らが集めた最新情報と合わせて再度作戦会議。その結果、家康率いる徳川本隊9千3百は先を行く池田・森隊を狙いに、水野忠重率いる徳川先遣隊4千5百(大須賀康高・榊原康政・本多康重・岡部長盛)は最後尾の三好隊をターゲットとして、9日未明小幡城を2隊に分かれ、敵軍に覚られぬよう追尾する。
9日早朝5時過ぎ、色金山に到着した家康本隊は、頂上から南5㎞の日進「岩崎城の戦い」と北西3㎞の「白山林の戦い」を窺って、3度目の作戦会議を開く。家康は床机石に腰を跨ぎ、井伊直政・奥平信昌・内藤正成・伴盛兼・渡辺守綱・天野康景・松平家信・松平家忠・大久保忠隣・菅沼定盈・高力正長らを前にして。
この後、家康本隊は長湫 前山まで進軍、9日10時~14時「仏ヶ根の戦い」に勝利します。
リニューアルしたホームページは、現地にてスマートフォンで検索すれば、「史跡の概要を知ることが可能」であるとの仕様にしました。どうぞ、ご利用ください。また、生のガイドをご希望の方は、長久手市公式ホームページから申し込み下さい。
なお、中日ホームニュースが発刊されたその日(7月12日)、長久手市郷土史研究会ホームページのアクセス数は下記のグラフのように、大きく飛び跳ねました。
中日ホームニュース社の方々をはじめ、ご尽力いただいた皆様、お世話になり有難うございました。