色金山(国指定史跡)
色金山歴史公園内(長久手市岩作色金37-1)
小幡城(おばたじょう)から進軍して来た徳川家康が
軍を止め、山頂の巨石を床机(しょうぎ)がわりに軍議を開いた場所
全景 展望台
◆色金山
羽柴秀吉方岡崎別働隊(池田恒興、森長可、堀秀政、三好秀次等)を追って小幡城から進軍して来た家康軍が軍を止め、山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたと伝えられます。
その巨石「牀机石」が今でも残され、傍らに宝永三年(1704)尾張藩士の福富親茂が建てた碑(刻銘:御牀机石)と、明治四十三年(1911)地元の有志が建てた漢文碑があります。
「牀机石」を少し南に下った山の中には、長久手合戦で戦死した家康方の武将、伴若狭守盛兼の墓もあります。
色金山は、江戸時代後期の名所要覧である尾張名所図会でも、「色嶺」として1頁を使って紹介されています。
昭和十四年(1939)には、国の史跡に指定されました。
また、平成八年(1996)に、歴史公園として整備され、市民の憩いの場となっています。
その他、この公園には、茶室や展望テラス、馬泉水広場などいろいろな見所があります。緑豊かで、季節毎にいろいろな風情が楽しめます。
◆床机石
◆御牀机石碑 (宝永の碑)
建立時期:宝永三年(1706)四月
建立者:福富親茂
建立の経緯:神君家康戦勝の地「長久手」に遊学に来たおり、当時を偲び漢詩を詠み、
石に刻む。
石碑の刻銘内容
正面刻銘:御牀机石
背面刻銘:
徳風偃草 紫極轉星
寶永三年四月 尾張藩 福富親茂建
(訓読) 徳風草を偃(なびか)す 紫極(しきょく)となり星に轉(てん)ず
(意) 家康の人徳の及ぶさまは草も伏し拝む 最高位として、星となる
石碑の大きさ:高さ 85㎝・太さ 17㎝角
材質:花崗岩
◆明治の碑
建立時期:明治四十三年(1911)
建立者:地元有志
石碑の刻銘内容
碑文:
天正十二年四月 羽柴秀吉攻織田信雄也
東照公怒其無狀 師兵助信雄
秀吉使池田信輝森長可等衝岡崎
公追撃殪二将事詳干史
當時公登此山踞此石 指揮諸軍之所向
一戦克之 終開三百年太平之基
矣乃建石以記 焉亦召伯甘棠之意也
明治四十三年四月 中井光撰拝書
訓読:
天正十二年四月 羽柴秀吉 織田信雄を攻むるや
東照公 其の状(情)なきを怒り 兵を師(ひき)いて 信雄を助く
秀吉 池田信輝森長可等(たち)をして 岡崎を衝(つ)か使(し)めんとす
公 追撃して 二将を殪(たお)す事は 史(ふみ)に 詳(つまびら)かなり
當時 公 此山に登り此石に踞して 諸軍の向う所を指揮す
一戦して之に克(か)ち 終に三百年太平の基を開く
乃ち石を建て 以て記す 亦(また)召泊(しょうはく)甘棠(かんとう)*の意なり
明治四十三年四月 中井光撰拝書
*「召泊、甘棠」
中国春秋時代周の国武王の子を召といい、伯はその尊称である。歴史書の史記「燕召公世家」に記す、召に因む甘棠(果実)を永く保存しようとする故事を援用したもので、胡牀石碑を永く保存する意味に使用する。
背面刻銘:発起人 吉田知行、柘植吟海、浅井広助、浅井作三郎
石碑の大きさ:高さ 170㎝
◆伴若狭守盛兼碑
建立時期:文政七年(1824)
建立者:伴盛兼の子孫の瀧川徳廣が盛兼の領地、遠州気賀の方向に向けて建立した。
石碑の刻銘内容
正面刻銘:伴若狭守盛兼墓
右側刻銘:文政七年甲申閏年八月弟伴清右衛門弘資七代 瀧川吉十郎徳廣謹立
左側刻銘:岡崎御譜代遠江気賀領主采地六千石 本国近江人天正十二年甲申
四月九日 長久手之役戦死於彼地
由来:
若狭守盛兼は織田信長の家臣で伊勢国亀山城に住んでいた。
信長自刃の後、家康伊賀越えに際して家来に道案内させて家康の危急を救った。この縁もあって天正十一年(1583)、三河に赴き家康に拝謁し遠州気賀六千石の領主となった。
長久手合戦では、井伊直政に従って戦い鴉ケ狭間で戦死した。
石碑の大きさ:高さ 104cm
材質:花崗岩
◆八幡社境内遺蹟
由来:
「天正十二年(1584)四月九日徳川家康はこの色金山で軍議をめぐらし、出陣に際して安昌寺の僧雲山の案内でこの八幡社に詣で戦勝を祈願した」と、伝えられています。
この八幡社は安昌寺の僧泰順によって、永禄二年(1559)色金山の中に社が開かれた。明治44年廃社になり石作神社に合祀されて、大正七年(1918)跡地にこの碑が建てられた。八幡社にあった献灯1基が安昌寺に移されています。
◆馬洗水
由来:
「合戦の折り、家康が勝って引き揚げる途中安昌寺の裏にあった井戸で馬に水をやった」という故事から、馬洗水と名付けられたレプリカが色金山の中腹に設けられた。