長久手市郷土史研究会

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首塚(くびづか)

首塚(国指定史跡)

長久手市役所の東200m(長久手市岩作元門41)

岩作村(ヤザコムラ)安昌寺の雲山和尚(ウンザンオショウ)が

合戦で戦死した多くの将兵の死体を集めて塚を築き、手厚く葬った場所

首塚

首塚


 長久手合戦で戦死した多くの将兵を供養する為の首塚です。首塚とは、合戦などにおいて討ち取られた者の首や、捕虜になって取られた首等を供養する為の塚のことです。長久手合戦での戦死者は2,500~3,000人と言われております。

 この戦いで勝利した家康は、戦場処理を行なわず小牧山へ引上げてしまった為、戦死者は山野に放置され野晒しにされていました。これを嘆いた安昌寺の雲山和尚は村人達と、敵味方関係なくこの地に死体を集めて手厚く葬り塚を築いた。

◆明治の碑

建立時期:明治43年(1910)2月

建立者:長久手村の有志

建立の経緯:合戦で戦死した将兵達の霊を供養する為に、地元の有志の人達が漢文の碑を建てた。

石碑の刻銘内容

正面刻銘

長湫之戦方罷伏屍満野状極凄惨安昌寺主雲山憫
之収拾其髑髏葬千此名日首塚後宝永中福富親茂
建小碑表之爾来常不断香華今則民居為蹟鄰將煙
滅郷人深概之依繞石棚更建一碑記其由欲用不朽
遺跡又慰遊魂
明治43年4月    大鹿英太郎撰

(訓読)
長湫(ナガクテ)の戦方(マサ)に罷(ヤ)み、伏す屍(シカバネ)は野に満。
状(スガタ)は 凄惨(セイサン)を極(キワ)む。

安昌寺の主雲山(アルジ ウンザン)之を憫(アワレ)み、 其の髑髏(ドクロ)を収拾し此(ココ)に葬(ホウム)る。

名づけて首塚と日(イ)う。

後宝永中、福富親茂小碑(フクトミチカシゲ)を建て之を表す。

爾来常に香華(コウゲ)を断(タ)たず、今、即ち民居(ミンキョ)は為に蹟(アト)、鄰(トナリ)を、将(マサ)に湮滅(インメツ)せんとす。

郷人之慨(キョウジンコレウレ)いて以て(モッテ)石の棚を繞す(メグラス)。

更に一碑を建て、其の由(ヨシ)を記す。不朽(フキュウ)の遺跡を用いて又、遊魂(ユウコン)を慰めんと欲す。

石碑の大きさ:高さ 180cm・厚さ 30cm

材質:安山岩

◆宝永の碑

建立時期:宝永3年(1706)4月

建立者:福富 親茂 (尾張藩士)

建立の経緯:神君家康戦勝の地‘長久手‘に遊学に来たおり、当時を偲び漢詩を詠み、石に刻む。

石碑の刻銘内容

正面刻銘

首塚

泥牛角争化城海 ・ 木馬飛光施火輪
試問蘭臺麟閣品 ・ 髑髏眼上惹瞋顰

(訓読)

泥牛角(デイギュウツノ)を争う化城海(ケジョウノウミ)・木馬光(モクバ ヒカリ)を飛す

施火(センカ)の輪(ワ)・試みに蘭臺(ランダイ)・麟閣品(リンカク ヒン)を

問(ト)えば・髑髏(ドクロ)眼上瞋顰を惹く(ガンジョウシンピンオヒク)。

(意)

両軍将卒相争うことを「泥牛争角」と比喩し争えば寺(化城)の海に入ると表現する。 「木馬飛光・・」は戦死者収容を表し、飛光、施火の輪は照明の具松明を伴い、夜間に及んでいることを表す。

「蘭臺麟閣」は中国唐代の役所名、「品」は位階、従って戦死者の家中、地位を問う比喩である。これに対して、戦死者(髑髏)は、怒りの形相を浮かべているようで、これが心にかかる。

石碑の大きさ:高さ 75cm・太さ 15cm角

材質:花崗岩

◆観音堂

建立時期:不明

建立者:地元の有志

建立の経緯:岩作村の中の辻にあった如意輪観音道標(石仏)をこの地に移設安置した。長久手では珍しい石仏道標である。

左  品野水野道
右  三州道

大きさ:高さ 210cm

◆長久手合戦400年記念碑

建立時期:昭和59年(1994)

建立者:地元の有志

建立の経緯:地元の有志が長久手合戦後400年を迎えるにあたって、その当時の将兵達の霊を供養する為記念碑を建立した。

大きさ:高さ 133cm・太さ 26×15cm角

材質:花崗岩