長久手市郷土史研究会

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木下勘解由塚(きのしたかげゆづか)

木下勘解由塚(市指定史跡)

西鴨田橋北交差点西北100m(長久手市荒田9-1)

「白山林の戦い」で敗走してきた三好秀次に、

自分の馬を与えた木下勘解由利匡が戦死した場所

勘解由塚

◆木下解勘由塚の碑

建立時期:昭和54年(1979)3月

建立者:長久手町教育委員会

建立の経緯

 木下勘解由左衛門利匡の戦死地です。

 秀吉方の岡崎侵攻の総大将三好秀次(後の豊臣秀次)が4月9日早朝 白山林(尾張旭市)で朝食中徳川先遣隊に奇襲攻撃を受け、総崩れとなった。大将秀次は混戦のうちに馬を失い南東方面へ走って逃げる途中、この地(荒田)で家臣の木下兄弟に出合った。

 この時、弟の木下勘解由左衛門利匡は自分の馬を秀次に譲り、秀次を逃がした後、兄弟の助左衛門祐久や周防守利直他の一族等と共にこの地に留まり秀次の御幣の馬印を地に刺し奮戦し討ち死にした。

 その戦死の地を印したのが勘解由塚である。
 なお、助左衛門祐久は秀吉の正室「ねね 北の政所」の叔父にあたる。

石碑の刻銘内容

正面刻銘:木下解勘由戦死処

石碑の大きさ:高さ 140cm・厚さ 30cm・幅 上部 22cm・下部 74cm

材質:花崗岩

◆木下周防守戦死の地

建立時期:平成18年(2006)末

建立者:長久手町教育委員会 住友不動産(株)

アルミプレート寸法:縦・横15cm 高さ26cm

 木下勘解由塚より東へ50mの所に、木下周防守利直戦死の地があります。マンションパークスクエア藤が丘の入口横の築山(高さ3m)の前にアルミプレートが建
てられている。

そのプレートには次のように記されている。

「三好秀次に従軍していた木下一族は、天正12年(1584年)4月9日早暁、尾張旭市白山林で徳川方の攻撃を受けて崩れ、長久手方面へ敗走しました。主君の秀次が自分の馬を失い、立ち往生しました。その時、将を固めて木下一族が奮戦し、戦死したのがこの地です。」

説明    長久手教育委員会

但し、現在は摩耗して読めない状態となっている。