長久手市郷土史研究会

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勝入塚(しょうにゅうづか)

勝入塚(国指定史跡)

古戦場公園内(長久手市武蔵塚204)

秀吉方の武将・池田恒興(信輝)が無念の戦死をした場所

勝入塚


 恒興は、天正10年(1582)主君信長亡き後入道し、勝入齋と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。

 恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。

 しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。

 結局、この地「仏が根」で家康の本体と決戦となり、奮戦空しく永井直勝に討たれ戦死しました。永井直勝はその後徳川家康の側近として仕え、下総古河7万2000石の城主となり大名となりました。

◆明和の碑

建立時期:明和8年(1771)12月

建立者:尾張藩士 人見弥右衛門と赤林孫七郎

建立の経緯:長久手古戦場を見学に来た人見弥右衛門と赤林孫七郎は、遡ること宝永3年(1706)に同じ尾張藩士の福留親茂がたてた標木が朽ち、遺跡が滅失しようとしているのを見て嘆き、帰途石屋に立ち寄って、下記刻銘の石碑を注文し、現地に建立したと、『尾張徇行記』にあります。この碑を「明和の碑」といいます。

石碑の刻銘内容

正面刻銘:池田勝入信輝戦死場

背面刻銘:明和八年辛卯十二月八日造

石碑の大きさ:高さ 122㎝ 太さ 15㎝角

材質:花崗岩

◆明治の碑

建立時期:明治24年(1891)7月

建立者:池田家の子孫、16世公爵池田輝博氏及び旧臣の方々

石碑の刻銘内容

正面刻銘:勝入池田公戦死處

背面刻銘

勝入公諱信輝其子紀伊守之助天正十二年四月九日
二公俱戦歿干長湫先考確軒公處其遺跡或湮滅世将
立誌之而遽捐館故不肖輝博續意志為之云
明治二十四年七月
十六世孫侯爵池田輝博

意訳

「勝入公諱は信輝、その子紀伊守之助、天正十二年四月九日、二公俱に長湫に戦歿
す。
先考確軒公(確軒公とは15世長博氏)、其の遺蹟、或は世より湮滅するを虜り、将に
石を立て之を誌さんとす。
而るに遽かに捐館す。
故に不肖輝博意志を續きて之を為くるという。
明治二十四年七月
十六世孫侯爵池田輝博」

石碑の大きさ:高さ 202㎝

材質:安山岩