長久手市郷土史研究会

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武蔵塚(むさしづか)

武蔵塚(国指定史跡)

砂子交差点の北350m(長久手市武蔵塚204)

鬼武蔵とも称された秀吉方武将・美濃兼山城主(岐阜県可児市)である

森武蔵守長可が戦死した場所

 

武蔵塚


 森長可(1558~84 27歳 庄蔵、武蔵守)戦死の場所と伝えられています。
長可は美濃(岐阜県)兼山城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方しました。

 舅、池田勝入らとともに、家康の本拠地岡崎を急襲しようとして失敗し、4月9日仏が根の戦闘で戦死しました。

 長可は、天正10年(1582)の本能寺の変で信長とともに落命した蘭丸・坊丸・力丸3兄弟の長兄で、勇猛果敢な武将として知られています。

 塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです。なお生き残った末弟千丸は、秀吉死後には家康につき岡山津山藩18万石の城主となり、森家を再興しました。

◆明和の碑

建立時期:明和8年12月(1771)

建立者:尾張藩士 人見弥右衛門と赤林孫七郎

建立の経緯:長久手古戦場を見学に来た人見弥右衛門と赤林孫七郎は、遡ること宝永3年(1706)に同じ尾張藩士の福留親茂がたてた標木が朽ち、遺跡が滅失しようとしているのを見て嘆き、帰途の途中に石屋に立ち寄り、下記刻銘の石碑を注文し、現地に建立したと、『尾張徇行記』にあります。
この碑を「明和の碑」といいます。

石碑の刻銘内容

正面刻銘:森武蔵守長一戦死場

背面刻銘:明和八年辛卯十二月八日造

石碑の大きさ:高さ 131㎝  太さ 15㎝角

材質:花崗岩

 

◆明治の碑

建立時期:明治31年4月(1898)

建立者:森家の子孫、15世子爵森長祥氏

石碑の刻銘内容

正面刻銘:森公遺蹟碑

碑文

「是為吾曩祖森公戦死處 公諱長可称武蔵守 夙以驍勇著有鬼武蔵
名小牧之役戦干此挺身奮戦中丸而斃 是實天正十二年四月九日也
春秋僅二十七 土人呼其地日武蔵塚 後百八十餘年 名古屋藩士
人見彌右衛門赤林孫七郎建石表之 然形模痺小恐久或傾壊 
乃新設趺石安雋石其上 更立碑其側記来由如此
嗚呼斯土公英霊所在為之子孫者豈可忽之乎哉 
十五世孫 子爵森長祥 謹撰書」

意訳

「是は吾が曩祖(先祖)森公戦死の処たり。公諱は長可、武蔵守と称す。
夙に驍勇(勇ましく強いこと)以て著らわれ鬼武蔵の名あり、小牧の役に此に戦い、身を挺して奮戦し、丸に中りて斃る。
是れ実に天正十二年四月九日也春秋僅かに二十七。
土人其の地を呼んで武蔵塚と曰う。
百八十餘年後に、名古屋藩士、人見彌右衛門、赤林孫七郎石を建てて之を表わす。
然し、形模痺(しびれ)小にして、久しくすれば、或いは傾壊せんことを恐る。
乃ち新たに趺(あぐら)石を設け、其の上に雋(すぐれる)石を案じ、更に碑を其の側にたてて、由来を記すことかくの如し。
嗚呼、斯の土は公が英霊の在るところ之が子孫たる者、豈之を忽せにすべけんや。
十五世孫 子爵森長祥 謹撰並書」

石碑の大きさ:高さ 197㎝

材質:安山岩