2024年10月30日、森武蔵守長可が生誕(永禄元年1558)した地、尾張国葉栗郡蓮台(現在の岐阜県羽島郡笠松町田代)のNPO法人「笠松を語り継ぐ会」の方々17名が、長久手に来られました(森武蔵守長可の父森可成は、織田信秀・信長父子に仕え尾張国葉栗郡蓮台を領地としていた)。
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「小牧・長久手の戦い(天正12年 1584)」当時、木曽川の流路は現在地ではなく、現在の岐阜市南部に近い境川辺りを本流として西へ流れ、長良川に突き当たった位置-墨俣から南に流れていた。そのため、現在の笠松町や岐南町などは、この時は尾張藩の領地であった。翌天正13年6月、大洪水により木曽川は現在の流路になり、羽柴秀吉が尾張と美濃の国境を変え、それまでの尾張国葉栗郡・中島郡・海西郡の一部25村を美濃国に編入した。
但し、天正13年6月の大洪水は、200年以上後の地誌に記載があるだけで同時代の資料がまったく残っていない。古くから木曽川は「木曽八流」と呼ばれたように、いくつもの派川に分かれ、西尾張の平野を複雑に離合しながら流れ下っていた。室町時代中頃には現在の木曽川の位置にすでに大きな分流が存在しており、それを国境としていたという説もあり、不明な点が残されている。
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古戦場公園内にある「郷土資料室」で合戦概要を説明。常設のジオラマを聞きながら活発な質問をたくさん頂きました。合戦屏風絵に森長可公、池田勝入公、庄九郎公がリアルに描かれている事に驚かれていました。令和8年に新調されるのを「楽しみ」とのご意見。ありがとうございます。
長久手古戦場公園の勝入塚でガイドを終えた後、「長久手古戦場」と刻まれた高さ10mに近いモニュメントの前で集合写真を撮られました。
長久手来訪の本命の場所は、「武蔵塚(長久手市武蔵塚906)」。
長久手合戦{天正12年(1584)4月9日}の正午頃、徳川家康公の本陣に突撃を企てた森武蔵守長可は、この場所から20mほど北の下り斜面(写真の右方)で徳川軍-井伊直政配下の兵士が放った弾が眉間にあたり、馬上からもんどり落ち即死しました。この地は、森武蔵守長可戦死の場所であることから、官名にちなんで武蔵塚と名付けられています。
尾張藩士人見弥右衛門・赤林孫七郎による「明和の碑(刻銘:森武蔵守長一戦死場)(1771)」と、森家やその家臣の子孫と長久手住民たちが明治31年(1899)に建てた「明治の碑(刻銘:森公遺蹟碑)」があります。
この後、色金山歴史公園に移動。色金山公園探索組と茶室堪能組に分かれて楽しんで頂きました。色金山の頂上では、徳川家康公が軍議を開いた場所(御床机石)で記念撮影。
巨石に座して天下をとる?ポーズ!「御床机石」の背面に刻まれた漢文もご案内。日本難解文字「岩作(やざこ)」には、非常に興味を持って頂きました。
笠松町は当初、傘町(かさまち)と称されていた事を伺い勉強になりました。
ありがとうございました。お疲れさまでした。