2024年7月から「長久手の地名」に関する学習会が、長久手市郷土史研究会―史跡ガイド委員会の月例会で始まった。
2024年7月「仏ヶ根、武蔵塚、城屋敷」、8月「鴉ヶ廻間・東浦・香桶・先達」、9月「下権田・大久手・丸根・菅池」と11の地名を学びました。
先ずは『長久手合戦』の戦場になった、「(旧)長湫―長久手古戦場公園」周辺の地名から開始です。
明治維新直後(1873)新政府により地租改正が行われ、徴税のための土地台帳を作る目的で、それまでその地域(小字)で伝承されてきた地名をもとにした名前(小字名)を付けた字域決定の作業が行われた。明治8年(1876)頃には、長湫90・岩作67・前熊14・大草13・北熊27、計211の字域が決められた。
教材は「長久手の地名 総集編(小林元著2002発行)」です。小林元さん(元長久手市郷土史研究会会員)は、昭和58年(1983)4月から平成13年(2001)4月まで『広報長久手』誌上で「長久手の地名」として、211の地名解説をされました。その集大成が「長久手の地名 総集編」で、明治初年に決められた211の地名(小字名)が、「明治9年字限圖(あざきりず)」を添えて解説されている。
上の地図は、解説の一例で「香桶」を説明している「明治9年字限圖」です。明治9年に書かれた地図(字限圖)には地名の他、当時の土地の状況(水田・畑・山林等)や河川・ため池・宅地・道・家・神社等が表示されている。詳細は下の凡例を参照。
上の地図は「明治9年地租改正字限圖」の長久手全図です。(この地図は、長久手市郷土史研究会の会員から借用)
この地図は、上の「長久手全図から、香桶」字域を中心に切り出し、拡大したものです。地図の「左上に富士社と『先達』字域へ向け長い参道がピンク色」で見えます。
その下には「東浦-前山(長久手合戦で徳川家康が本陣とした)の宅地と家」と「前山池(血の池・鎧掛の松)」が有り、「城屋敷」と「仏ヶ根池」が見えます。
下側中央には「池田信輝(恒興・勝入)の墓ー長久手合戦で徳川方の永井直勝に討ち取られた=現在は勝入塚が建てられています」が見え、「仏ヶ根」「大久手」「下権田」「先達」と反時計周りに繋がります。
「長久手合戦」の戦場になったこの一帯は、安土・桃山時代の後半~江戸時代の300年を経て、「水田・畑・竹藪が中心の場所になっており、西側の「東浦」と東側の「丸根」に人家があることが分かります。
明治時代の初め頃の「戦いの名残り」は、「①池田信輝墓」と「②仏ヶ根・③鴉ヶ廻間」の地名のみです。
「仏ヶ根」と「大久手」の間の茶色の線(明治初年頃の道路)には、現在は県道「瀬戸・大府・東海」線が通っています。
150年を経て大きく様変わりした長久手であるが、現在も使われている地名は多く存在する。
しかし、現在目にする地形や風景と、そこで使われている地名との関係はその乖離が大きく(例えば、2024年9月に学習した「菅池」:最近の土地区画整理前まで「菅池」と呼ぶ大きなため池があったが、区画整理により埋められ池は無くなった)結びつきが困難である。これを少しでも手助けをする情報「明治9年字限圖」を提供して学習効果を上げると共に、長久手の地名に親しみを持っていただくと幸いである。