本丸御殿春姫の祖父は
長久手で戦死した池田恒興 (勝入) であった
1 新世紀・名古屋城博と愛・地球博
「御殿はどこじゃ」。平成17 年4 月23 日、名古屋城。
尾張藩の初代藩主徳川義直に嫁いだ春姫の輿入れを再現した「春姫道中」ハイライトシーン。新世紀・名古屋城博でのことである。この名城博は、3 月19 日、愛知万博(愛・地球博)に合わせ開幕、目標の100 万人を上回る122 万人が来場して6 月19 日に閉幕した。「春姫道中」は本丸御殿復元機運を高める仕掛けとして、平成6 年に企画され、翌7 年から毎年4 月に行われている。「愛・地球博」は3 月25 日開幕、9 月25 日に閉幕した。今年は10 周年の年である。
万博開始の平成17 年、「春姫道中」は名城博で披露した後、「愛・地球博」会場で「春姫道中」を再現し、結婚の場面を舞台で演出した。
平成17 年4 月23 日:左「名古屋城『春姫道中』、右「愛・地球博会場での結婚場面」
2 名古屋城本丸御殿
本丸御殿は、尾張藩主徳川義直と春姫の住まいとして、慶長20 年(1615)に建てられ、近世城郭御殿の最高傑作といわれたが、昭和20年(1945)に空襲により焼失した
その後、平成21 年(2009)復元工事に着手され、一昨年、25 年5 月、復元された玄関・表書院が公開された。30 年(2018)全体公開に向けて工事が進められている。
名古屋城本丸御殿 平成25 年撮影
3 春姫と池田勝入
春姫は、尾張初代藩主・徳川義直(家康第9男)の正室である。慶長7年(1602)紀州和歌山に生まれ、父は浅野紀伊守幸長(よしなが)、母は池田恒興(勝入)の娘である。池田恒興(勝入)とは、長久手合戦では、羽柴秀吉方の中心の武将として戦い、子の池田元助(庄九郎)と共に、長久手の仏が根で戦死した武将である。
仏が根の古戦場公園にはその塚があり、「明治の碑」と「明和の碑」が建っていて、国史跡に指定されている。言い換えれば、春姫の祖父は池田恒興(勝入)の孫であり、長久手合戦の敵方であった徳川家康の子と結婚したということになる。いくらでもある事例とはいえ、戦国の世ではなおさらのことと思われる。祖父・勝入の戦死は1584年、春姫誕生は1602年、18年も後のことである。
春姫は、14歳のとき、16歳の義直に嫁した。
慶長20年(1615)4月12日(旧暦)のことである。前日に熱田に着き、昼下がり、花嫁行列は熱田から目抜き通り本町筋へと続く。「先頭は中間100人、そして、花嫁春姫の黒塗りの御輿、次にお供の女中衆が50挺の駕籠、馬上の女たち43人、お長持300左お棹…」と当時の記録は伝える。三日前に来名して待ち受けた家康は二の丸隅櫓の楼上で、この盛大な行列を見物した。
こうして、当日の戌の刻(午後8時)から盛大な祝宴が行われた。家康と義直は、その後、日ならず大坂夏の陣へ出陣した。8月、帰路、名古屋に立ち寄った家康は春姫の化粧料として、木曽3万石を加増したと伝わる。
尚、春姫が居住した名古屋城内の御殿は、もとの桃山御殿を移築したものである。これは、豊臣秀吉から浅野家が拝領し、和歌山にあったものである。祖父・長政は石田三成などと共に五奉行の一人として豊臣恩顧の重要な武将で、小牧長久手戦では1500余を率い秀吉方に参陣している。父・幸長は朝鮮出兵、1597年からの慶長の役の折りには、加藤清正と共に籠城。この折りの石田三成への遺恨からか、1600年の関ヶ原の戦には徳川方に参陣し、その功により和歌山37万石余の大名となった。尚、赤穂浪士で有名な浅野家はこの分家である。
春姫は手厚く待遇されたが、生涯子供に恵まれなかった。その後、寛永10年(1633)、側室などの子・光友、絲姫と共に江戸邸に移り、14年4月23日、同邸で逝去した。36歳。大須万松寺に葬られた。(現在は改葬)
古戦場公園 勝入塚 平成26 年4 月撮影
4 「愛・地球博」10 周年
平成17 年に「愛・地球博」が開催され、今年はその10 周年の年である。名城博で「春姫道中」を披露した後、長久手、「愛・地球博」会場で「春姫道中」を再現し、結婚の場面を舞台で演出した。
長久手合戦の勝者、徳川家康の9 男・義直と戦死した池田勝入の孫・春姫。そして「愛・地球博」。全く関係のないとはいえ、長久手にとって不思議な縁である。
<主要参考資料>
『尾三の女たち』江碕公朗 『新世紀・名古屋城博 報告書』 他