瓫五十戸
1 長久手市文化財に指定された刻書須恵器片「瓫五十戸」
平成25年2月、須恵器片10枚が長久手市文化財に指定された。新規指定は長久手市では13年ぶりのことである。
長湫南部区画整理事業に伴う事前の発掘調査が、平成16年から18年にかけて丁子田1号窯と市ヶ洞1号窯で行われた。その結果、多数の須恵器片が発掘され、その中に、「瓫五十戸」に直接関係する文字の刻まれた須恵器片が、市ヶ洞1号窯9片、丁子田1号窯3片が含まれていた。古代の長久手で窯業が盛んだったこと、当時の都・飛鳥とのつながりがあったことが分かる歴史的に貴重な文化財ということで、市ヶ洞1号窯の8片、丁子田1号窯の2片が市文化財に指定されたのである。
2 長久手で初めて発掘された「瓫五十戸」
平成12年、長湫南部区画整理事業に伴う事前の試掘調査の折り、市ヶ洞1号窯で甕の破片が発掘された。縦16cm、横26㎝、厚さ1cmの甕の破片には、右から「瓫五十戸」とヘラで刻まれていた。
昭和60年、1400年ほど前、飛鳥時代、当時の都、明日香の石神遺跡から発掘された短頚長胴壺の11cmほどの底面にも「瓫五十戸」とヘラで刻まれていたこと、県外では、明日香でしかみつかっていないことから、市ヶ洞周辺が焼き物を通して、飛鳥時代、当時の都・飛鳥と焼き物を通して特別な関係にあったということ、市ヶ洞周辺が日本の歴史と大いに関係していたことが推測されるようになった。
3 焼き物と長久手
(1) 焼き物
焼き物は大きく分けると3種類に分類することができる。
① 土器(縄文土器、弥生土器他)
手捏ね成形。野焼き。(酸化焔)
手で粘土を捏ね、皿や壺などの形にしてから土の上に並べ野焼きする。
② 陶器(須恵器、山茶碗、赤津焼、常滑焼他)
轆轤(ロクロ)、窖窯(あながま)。(還元焔)
5世紀、朝鮮半島から轆轤が伝来。形の整った焼き物を手捏ねとはくらべようもないくらい多く生産できるようになった。
それと共に、窖窯が伝来。1千℃以上高温で焼くことにより、堅牢で漏水しにくい焼き物・陶器・須恵器を作ることができるようになった。炊き口に蓋をした、空気の少ない状況・還元焔によるものである。
③ 磁器(轆轤成形。窯で焼成。陶石を陶器より高温で焼いた物。有田焼他)
(2) 工人集団の長久手への移住
『日本書紀』21代雄略天皇7年(463)「天皇(すめらみこと)、大伴(おおともの)大連(おおむらじ)室屋(むろや)に詔(みことのり)して…新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべのかうくうぃ)…等を上桃原(かみつももはら)…の三所(みところ)に遷(うつ)し居(はべ)らしむ」。5世紀中ごろ伝来と。
近年の考古学会の成果で、5世紀初期、大阪や北九州に伝来し、堺・和泉の陶邑窯(すえむらよう)では須恵器を焼いていたとの発掘調査結果。ヤマト王権の支配者が百済から工人集団をよびよせたとも、百済の高官が工人集団と共に大和へ移住したとも推定される。
『日本書紀』19代允恭天皇5年(416)「7月…地震なゐふる夕よに當りて、尾張連吾あ襲そを遣つかはして」。ヤマト王権と関係の深かった尾張氏が、5世紀前半には渡来系工人集団を尾張に呼び寄せ、その後1、2世紀の間に、工人集団は須恵器生産に適した東名インター南付近に移り住んだものと推測される。
東名インター南付近は須恵器生産の条件に恵まれた適地。
① 原料である粘土
花崗岩の風化などによりできたカオリンを含む良質な粘土が豊富。
② 燃料
窯で炊くには大量の薪が必要。現在も猪高緑地は樹木豊富。
③ 窖窯の適地
窖窯は低い丘陵地の斜面を掘りぬき半地下式。低い丘陵地が適地。
4 瓫五十戸の「五十戸(さと)」
奈良時代以前は国郡里制。『延喜式』によれば、「尾張国」は山田郡など8郡。山田郡には『和名類聚抄』によれば、7里。そして「五十戸」は、平安時代前記にまとめられた律令の注釈書である『令集解』には「凡そ五十戸をもって里となす」とある。当時の一村落の規模をいう。平安時代にまとめられた『和名類聚抄』の頃には「瓫五十戸」は新たな粘土を求めて、既に移住してなくなっていたといえ、焼き物である「瓫」が「五十戸」の地名になっていたことから、焼き物に関係ある特別の「五十戸」であったと推定される。